Knockin’ on Heaven’s Door

京都のライブから帰宅する、日付が変わって1月12日の0時半頃、
我が家の愛犬どんちゃんが息を引き取りました。

数日前からすこぶる調子が悪そうで、予感はあったとはいえ、
最後の2日間はご飯も食べなくなり、一気に向こう岸へ行ってしまいました。

最期は母親が看取ってくれました。
目を覚まして自力で起き上がってお水を飲み、
そばで身体を支えて見守っていた母親に、少し尻尾をふって、
寝床に戻るのを手伝った母親の腕の中で、一度吠えて、亡くなったそうです。
あたしが帰宅したのはその30分後、間に合わなかったけれど、
どんちゃんの身体は、まだやわらかく、とてもあったかかったです。

今までたくさん写真を撮っては公開してきましたが、
私の親バカっぷりにお付き合いくださり、
一緒に「可愛い」と、どんちゃんを愛でてくださった皆さんに、心からお礼申し上げます。

正直、どんちゃんがいなくなったことは受け入れ難く、
どう見ても、ただ寝ているだけのような姿で、今にも目を開けそうな気がしてならない。
毛並みはいまも柔らかいのに、でも、いよいよ冷たくなって、硬くなってしまった。
淋しくて恋しくて、ここまで泣いたのは何年ぶりかというほど涙が出てきます。
この記事は日付をさかのぼって1/12付けで書いていますが、
これを書いている現在、2日経っても、思い出すとやっぱり泣いてしまうという有様です。
大の大人がバカみたいだなあと思うほど、おめおめと泣いてしまうのです。

今までのどんちゃんの写真や動画が、スマホやパソコンの中に、たくさん残っていますが、
私の母親はとてもアナログなひとなので、母親のために、そして私自身のためにも、
サルベージした全ての画像から厳選し、簡単にレイアウトしたものをプリントアウトして、
いつでもあの愛らしい姿を思い出せるように、ファイルに入れて簡単なアルバムを作りました。
どの表情も、どの動きも、ほんとに可愛かった。

* * * * *

先代のわんこが天寿を全うしてから数年後。
どんちゃんと初めて会った日、生後2ヶ月、あたしが一目惚れした犬。
しかも母親と同じ誕生日だったことから、まず母親を口説いて、そして父を説得してもらい、
まったく知らされていなかった兄が、さらっと「どんちゃん」と命名し、
そうして我が家の家族になってくれた、どんちゃん。
片手の手のひらに乗るくらい小さかった。

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マルチーズとチワワのミックスだったのですが、
ウサギのようだったり、耳が垂れていたり、

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カメラ目線がとても上手なコだったり、
散髪する前と後で、全然見た目が違っていたり、
変な寝姿を披露してくれたり、

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箱に入るのが好きで「アマドン」になったり、
(そういえばあたしが旅行トランクを広げて、ライブ遠征の準備をしていたら、必ず中にちょこんと入ってたなあ)

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毛布にくるまるのが大好きだったり、

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宅録しているときに、「あれ?なんか雑音入ってる?」と思ってよく聞いてみると、
たまに「わん!」って声が入ってて、コーラス参加かよ、と和んだり、
(本来は集中してピリピリしてたりするのですが、こういうときはやり直しになっても一切怒る気にはならなかった)

内弁慶なところも含めて、とりあえず飼い主に似ているどんちゃんでした。

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すっかりおじいちゃんになっても可愛いままでした。

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そして、一番最後の思い出は初詣でした。

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あたしが生き急いでいたときも、そばにいてくれた。
いったん東京に行って、神戸に帰ってきてから、犬のいる生活にどれだけ癒されたか。
あたしが音楽の道にもう一度戻ってこれたのは、たくさんのひとや思い出に背中を押してもらったおかげだけど、
日常生活や精神が安定したおかげでもあって、
そこには家族の支えがあって、その家族の中に、どんちゃんの存在は欠かせなかった。
世の中に「ドッグセラピー」があるというのは知っているけれど、
もしかしたらそういうものに近い「恩」を感じている。

人間には意思や志があって、それぞれの価値観と生き方がある。
それは他人には(たとえ家族であっても)侵害できないようなもので、
だからこそ認め合って、理解し合って生きることが、難しい。
でも飼い犬は、受け入れ合うという、まさに共存しかない。
託すという意味での依存や、委ねるという全幅の信頼に、あたしは愛しか感じない。
人間で言えば、それは愛がなければできないことだと思うんだ。
でもきっと犬にとっては、愛という概念すら考えないで、当たり前に、それしかないのだ。

シンプルに生きているものは「うつくしい」と思う。
あたしが学ぶべきは、そこにある。
愛玩動物と呼ばれるペットたちは、人間のエゴだけで、ただ生きて、死んでいく。
だからこそ、育むべき心は、そこにある。
保護者としての責任を感じて、与えたもの、与えられたものを、ちゃんと理解していきたい。

つくづく思うのだけど、言葉というのは実は不自由なのかもれないな。
なまじ通じるだけに、他が、おろそかになるのだな。

優しさの概念すら考えないで、当たり前にひとに優しくできる人間になりたい。
愛の概念すら考えないで、当たり前に愛せるひとになりたい。

あんな小さかった赤ちゃんが、あたしより先に年老いて、置き土産を残していく。

ありがとう。

足元に寄ってくる白い小さなふわふわが居なくなって、
家は急に静かになった気がします。

15歳と21日。

小さな白い天使。

おやすみなさい。

うちの家族になってくれて本当にありがとう。

あたしはきみが大好きでした。

悲しいけど、淋しいけど、恋しいけど、

ぜったいにきみを忘れない。

あたしがそっちに行くまで、しばらくの、ばいばい。

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